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執筆者の写真Joe

「人は不平等」から始めよう~格差の議論と恵まれた境遇の人達の不運~



格差の議論の盛り上がり

最近、教育格差や所得格差に関する議論が盛り上がっているようです。

「子供の7人に1人が貧困」、「デバイスを買えない世帯があるのでデジタル化によって教育格差が広がる」…といった報道が連日されていますし、自身の恵まれない生い立ちや格差などを記したブログなどもバズったりしています。

所得が増えるにつれて教育にかけるお金が増えるという統計があります。


東大生の親の平均年収は1000万円と言われていますし、東大生は中学受験をしている子が多いそうです。そうすると、中高一貫で上質な教育を得られます。

また、生まれた家庭の所得や地域によって子供の学歴が決まってしまうといった研究もあるようです。

貧困や教育格差は解決の難しい問題です。


そもそも人間は不平等、社会は不公平

日本における格差の議論は、格差をメディアが報じ、格差にあえいでいる人がSNSを通じて発信し、一部の人に支持され、国民全体でなんとなく「人間は平等であるべきなのに格差があるのはおかしい」といった問題意識が広がっているように感じます。

また、「教育格差を是正すべき」、「貧困を無くすべき」、「社会は公平であるべき」、「人間は平等であるべき」といったようないくつかのいろんな議論が同時に語られているように感じます。

教育格差は是正すべきですし、貧困も無くすべきですし、これらは難しい問題ですが解決可能な問題だと思います。

しかし、「社会は公平」、「人は平等」というのは是正するのはそもそも不可能ではないでしょうか。

容姿も体格も運動神経も才能も家柄も性格も人によって全く違います。どんな地域で生まれてどんな人達に囲まれて育つかも違います。

この時点で社会は公平、人は平等とは言えないでしょう。 「Life is not fair; get used to it.(人生は公平ではない。そのことに慣れよう)」

とビル・ゲイツが言っていますが、ビル・ゲイツ氏は親が弁護士で裕福な家庭でモンテッソーリ教育という子供の才能を育てる天才教育を受けており、お金持ちになるべくしてなっているのです。

マーク・ザッカーバーグ氏も親が医者で恵まれた家庭で同様の教育を受けており、似たような形です。 「社会は公平」、「人間は平等」というような前提がそもそも間違っているのです。



なので、「社会は不公平」、「人間は不平等」

この前提に立って物事を考えて生きていきましょう。 恵まれた家庭に生まれなかったなどと悲観する必要は全くないのです。 むしろお金持ちとか有名人の家庭に生まれなくてラッキーくらいに思った方がいいのです。

恵まれている人の不運

恵まれた家庭やすごい親の子供に生まれた人達は親と比べられるし、成功しても色々と言われ続けます。


宮崎駿の息子の宮崎五郎さんは父親が超天才なのでどんなに良い映画を撮っても父親よりダメと言われ続けるでしょう。世間一般の水準で面白い映画を撮ったとしても父親と比較された評価をされてしまう訳です。


メディアアーティストの落合陽一さんのお父さんは落合信彦さんという有名な国際ジャーナリスト・文化人で母親は凄腕経営者で、落合さんは六本木生まれ六本木育ちです。 いくら努力しても功績をあげても、あの人は恵まれてるからだのボンボンだのと言われ続ける訳です。


本当に不条理、不平等だと思いませんか。 恵まれた環境で生まれ育った人達のほうが不運ではないかとすら思えてきます。


「逆マウント」が取れる私たち

私はド田舎生まれ、ド田舎育ちで、両親大卒ではないですし、サラリーマンと専業主婦の家庭で3人兄弟ですから小さい頃は生活はけっこうカツカツだったのだと思います。

兄弟3人みんな小中高は公立で、私は工業系の高校を中退して中卒で数年間働いていました。その後、勉強してアメリカの大学にいって外資系のコンサルティング会社に入ることになります。


外資系のエリートコミュニティでエリートと呼ばれる人達の港区あたりのパーティとか飲み会とかに顔をだしていたこともありますが、港区などの東京の一等地出身で中学あたりから一貫の名門私立とか、高い予備校とか、名門大学とかに入って一流企業に入って威張っている人達がいました。

しかし、そんな威張っている人達がいても、私のようなチンピラと同じような企業で同じような年収で(今は私の方がそういう人達より年収高いと思いますが)働いていて、「君たちはそんなに恵まれてる境遇なのに、私みたいなチンピラと同レベルだけど、なぜそんなに威張っているの?」と思えるのです。


つまり、「逆マウント」が取れるのです。


家庭の地域や所得が恵まれている人に比べて、劣っている人は、恵まれている人達と同じレベルになった時点で「逆マウント」がとれます。 (そもそもマウントなんてとる必要はないんですが、あからさまにオレ様のほうが身分が上だと言わんばかりに威張ってマウントをとってくる人もいるのでそういう人に対しては心の中で逆マウントをとりましょう)


「フルマラソンでハンデをあげて5分くらい遅れてスタートしたけどもう追いついちゃったよ」というような感じです。


実は時間も不平等

もう一つ不平等の話をすると、「時間はすべての人にとって平等」と言いますが、人によって時間も平等ではないのです。

時間は1日24時間、これは全ての人に平等に与えられていると言いますが、本当に時間は全ての人にとって平等と言えるでしょうか。

時間が平等ではないと考えられる理由として、主に3つ挙げられます。 一つ目に、好きなことに使える時間は人によって違います。

学費や生活費を稼ぐために、或いは家計を助けるために学生の頃からアルバイトをたくさんしなければいけない人、家業を手伝わなくてはいけない人、地域の行事や取り組みに参加しなければいけない人、家族に重大な病気を持った人がいて看病しなければいけない人…こういった人はたくさんいます。

また或いは、自身の意思とは無関係に災害や事故で一定期間何もできないような期間が発生してしまうケースもあります。

つまり、自由に使える時間は生まれ育つ環境によって異なります。


二つ目に、子供の頃の「積み重ね」が違います。

子供の頃に効率的な学習ができるかできないかで積み重ねに差がつきます。 例えばピアノの習い事で、著名な音大を出た先生にマンツーマンでピアノを手とり足とり教わるのと30人の教室でドレミの歌をみんなで歌うのとどちらが学習効率が良いでしょうか。

おそらく前者で、学習効率が高い、つまり早く学べるということは時間を有効に使えていることとなり、他の人よりもたくさん時間があるのと同じです。そういった人達は成長してからさらに高度な事を学ぶ事ができますが、他の人達はまだ基礎練習をやっている、といったことになるのでどんどん差が開いてしまうということです。

これも自身の意思とは関係なく、家庭環境に依存します。

なので、たぶんクラシックの奏者などは多くはお金持ちの家庭だったりクラシックに造詣の深い家庭だったりするのでしょう。


三つ目に、人はみんな「命の長さ」が違うということです。

人の時間=その人の「命」ですよね。

人は遅かれ早かれいつか死ぬ。いつ死ぬかは誰にも分からない。


平均寿命(日本の男性の平均寿命は80歳、女性は87歳)というものがありますが、これは早く死ぬ人も遅く死ぬ人も含めた平均なので平均寿命と全く同じ年齢で死ぬ人のほうがよっぽど珍しいです。


100歳まで生きる人もいれば60歳で死ぬ人もいる。つまり、人によって与えられた「時間」は不平等なのです。


10年後病気で死ぬかもしれない、1年後災害で死ぬかもしれない。

明日、交通事故で死ぬかもしれない。


このように「時間も不平等」なのです。


まとめ

生まれも育ちも能力も不平等、時間も不平等。

社会は不公平、人は不平等。

それだけの話です。

社会とはそういうもの、人も全員不平等というのが「前提」なのです。

この当たり前の前提をだれも教えてくれないのですが、大人になるにつれてだんだんと理解していくのです。

しかし、悲観的になる必要は全くなく、恵まれた環境、有名人などの家庭に生まれなくてラッキーだと思った方がいいのです。





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